限りなく透明に近いブルー 村上龍
たまにはまじめなことも書いていこうと思う。
村上龍さんの「限りなく透明に近いブルー」を読んだ。
第一声、衝撃。
読みながら、何度も心が震えた。響いた。
紡がれる言葉が、かっこいい。鋭い。
まだ一周目なのだが、これは必ず2周しようと思う。いや、何周でもするつもりだ。生涯の一冊。
戦後の日本。ドラッグとセックスに明け暮れる若者。
そこに描かれていることを、いざ自分が目にしたら、おそらく耐えられないであろうことが、平気で行われていく。しかし、主人公リュウの目を通して語られるその世界は、どこまでも透明で、冷たくて、無機質だ。まるで夢の中の出来事のような。
登場する若者たちは、みんなこの世界への「けだるさ」みたいなものを持っている。生きづらさ、といってもいい。
これは村上龍さんが、爆笑問題との対談で言っていることだが、そういった虚脱感・無気力感を抜け出すためには、かなりのパワーがいる。それが、セックスであり音楽であり、ドラッグであるとわかめは考える。
村上さんはこうも言っている。「自殺するなら、オナニーしろ。」
これは少し、おおげさかもしれないが、この現実とつながる(現実を感じる)瞬間の一つが、性欲である、ということなのだろう。
作中に登場する若者たちは、どうしようもない生きづらさなどが詰まった「衝動」を、セックスやドラッグや音楽という形で具現化し、発散することで、「今を生きているんだ」という実感を感じているのではないだろうか。
むしろそこには、現実逃避としてのドラッグとかセックスではなく、彼らが現実と向き合うための、その手段として作中では機能しているのではないかなと思う。
最後、主人公リュウは、夜明けの空気に染まる「限りなく透明に近いブルー」のガラスのようになりたい、と考える。夜明けの街を映し出すガラスのように、自分もありのままを受け入れて、そしてそれを映して他人に見てもらうために。
どうして、リュウがこのように考えるに至ったのか、それはまだ力不足であまり読めていない。
つたない言葉で述べさせていただくならば、終盤にリュウは「黒い鳥」がみえるようになる。
町全体が黒い鳥だと思い、リュウはこれに恐れおののく。「リリー、どこにいるんだ、一緒に鳥を殺してくれ。」一人ではどうしようもなく、思わずリリーに助けを求める混乱しているリュウの姿である。
しかし、リュウは最終的に、この黒い鳥から逃れることはできないと結論付ける。つまり、この現実から逃げることはできないと気づく。むしろそこには、現実と向き合っていこうという意思が感じられる。
そして、前述の最後のガラスのシーンにつながる。
この街=現実と向き合い、それを他人に伝えることができるようになりたい、リュウはそう考えるのだろう。
ただ、その直後、ガラスが曇るシーンがあるのは、リュウが完全には現実と向き合うことができるようになったわけではないこと、その決心の脆さのようなものが表現されているように思う。
まだ読みが深まっていない段階であるため、自分でも何をいっているのかよく分かっていない。
ただ、この「限りなく透明に近いブルー」が、名作であることだけは、ここにはっきりと伝えたい。
今日はこの辺で。